「アダルトチルドレン」という便利な言葉が世に膾炙して久しい。


 この便利な言葉が使われ出した当初から、僕は小さな疑問の棘のようなものが心に引っ掛かるのを覚えていた。


 しかし、この便利な言葉が、幼児虐待や子供の人権という非常に重大な問題に多くの人の目を向けさせる啓蒙的効果があったことを僕は否定するものではない。そのこと自体はそれなりに評価されて良い。


 だが、この「アダルトチルドレン」という言葉は、幼児期の虐待のトラウマや病んだ親子関係が災いして、いつまでたっても一人前の立派な「大人」になれない未熟な人間、ダメ人間としての「子供っぽい大人」を意味している。


 その裏面には、自分の中でいつまでも昔のトラウマに拘って、「大人である自分」が自由に「大人らしい」行動をすることの足を引っ張り、恐ろしい駄々を捏ねて邪魔をしてくる「内なる厄介物の子供」を何とかなだめすかしてコントロールできないものかという、「大人中心主義」の価値観が厳然と、不可疑のものとして存在している。


 僕はそんなことではこの思想はついにはどんな人の心も救えず、どんな子供の涙も贖えない単に嫌味で苦い「子供騙し」に終わってしまうだろうと思っている。結局、この思想の根幹には、それが闘っている児童虐待者(加害者)と同じ、「子供」というものへのとても浅はかな、そして非常にみにくい、抜きがたい「侮蔑」が共有されてしまっているに過ぎないからだ。


 何故、人間は「子供」のままであってはいけないのか?
 どうして、全ての「子供」は「大人」にならなければならないのか? 
 何故、常に「大人」が「子供」に対し「優越」するものであると信念されているのか?


 そこには、まさにこうした問いが絶望的に抜けているのである。


 それは、一見、「子供」を救うかに見えて、実は果てしなく絶望的に「子供」の端的にそこにあるがままの人格の尊厳や生命の優美を見損ない、見失っている自己欺瞞的な思想であると僕には思われてならないのである。


 そして、敢えて心を鬼にして、僕はこの「アダルトチルドレン」というお優しい思想の内に隠れた陰湿な毒やとても卑怯な冷たさを、厳格に批判し糾弾していかねばならない時期がそろそろきたのではないかと思うのだ。


 「アダルトチルドレン」という思想は、何も救わない。それは実は単なる意匠を変えた「幼児虐待」であり、そして、もっともみにくく、もっとも倒錯した、病的なモラルハラスメント、全ての人間、すなわち全ての子供に対する実に陰湿で根深いモラルハラスメントの究極の形であるのではないだろうか?