■ギリシア語で〈時〉を表す言葉は、ざっと思い浮かべて三つある――クロノス、カイロス、アイオーン。


■普通に〈時〉を意味する語はクロノスである。日本語で書くと表記が同じになってしまうが、これは神のクロノス(ローマ名サトゥルノス、土星の神)とギリシア語におけるその頭文字が異なる。時のクロノスはχ(カイ)で始まり、神のクロノスはκ(カッパ)で始まる。しかしながら、クロノス神はしばしば「時」を象徴する神と看做されていた形跡があるので、この綴り字の原語における差異は、目に留めるだけの価値はあるものの、二つをまったく無関係なものとして切断するほどのものではない。いやむしろ、この綴り字の差異があるからこそ、神のクロノスと時のクロノスを照合しあい、そこにミスティックでシンボリックな意味の過剰な核融合を引き起こしてゆく類似(アナロジー)と呼ばれる不思議な運動も生じるのである。すなわちクロノスの神話は、それ自体が時としてのクロノスの観念の辿るべき何らかの運命を物語っているのだという風に、われわれに考えさせるべく仕向ける神的な示唆もまた生じるのだ。


■カイロスとは単なる現在、単なる瞬間としての時刻ではない。それは確かに或る特別な出来事の時を、時間の上に、歴史の上に、出来し、そして永遠に失われた絶対的過去の痕跡として、脱去として刻みつけ、文字通りの意味でクロノスを切り裂き傷つける。それはまことにXronosならぬKronosを切り裂いて迸る偉大なる雷鳴の神ゼウスの稲妻であり、その紫電の咆哮のようだ。それは時間に一瞬強度の電流を流して、文字通り全宇宙を震撼させ感電させる。そしてその出来事の電流は、通常のイメージとは異なる意味での永遠(アイオーン)を幻視させもするし、また、それ自体において、それは時間(通常の意味での、過去-現在-未来の継起的オーダー)を越えている。いわばそれは時に逆らうもの、時間の秩序を逆撫でするもの、いわば一種の反時間としての、出来事の超時間性の顕現であり、その超越である。天使という不可視のものが顕現するのはまさにそのような時とは異なる時のなかにおいてなのだ。それはこの世界にいわば光のひびわれとして、電光の亀裂として超時間的に顕現し、そして時間=歴史と、いわば破壊的に交差する。時を切り裂き、時に傷を負わせる、恐るべき裁き手の切断の剣の閃きのようにして。


■カイロスはクロノスに組み込まれることがない、それ自体として全く異質な時間の秩序の、或る意味において残酷な、そして暴力的で破局的な、時間(クロノス)そのものへの侵入であり、壊乱であり、そして時間そのものの破壊である。それはアイオーンを啓示する。いわばクロノスとアイオーンの、この相互に全く相容れぬ時の秩序の破壊的で爆発的な交わりこそがカイロスであるのだ。


■the time out of joint. 時を乱し、時の蝶番を脱臼させ、時を壊し、時を狂わせる恐るべき狂気の瞬間としてのカイロスの〈今〉は、過去-現在-未来の三つの様相に分岐しながらクロノスという時間意識の根源的秩序に統一的に内属していく時間化された現在とは根本的に異質であるように思われる。それはむしろ時間それ自体の瞬断として到来するのであり、常に既に時間の同一性の持続であることをその根底的意味として保持することをやめようとしない現在という性懲りも無いこの鈍感な概念とは相容れないし、それから理解することもできない。なにかそこでは、時間の継起的連続性そのものを不可能にしてしまう、したがって現在が現在であることすらも不可能にしてしまう、何か桁外れの出来事が時間を決壊させるようにして起きているのであって、それは既に「時間そのものの瞬断」としか言い表すことができない。カイロスとはだから厳密には「瞬間」ではなくて「瞬断」なのだ。それはハイデガー的な「瞬視」としての瞬間(アウゲンブリック)の観念にも恐らく回収する事が出来ない。「瞬視」はカイロスという「瞬断」を恐らく決定的な一瞬の差において目撃することができないのだ。それは全く不可視なものとしての〈今〉の余りにも超越的な顕現であるが故に。


■勝れて〈出来事〉の時であるカイロス。それは現在に到来する時ではなく、むしろ現在を破壊し、時間を瞬断させ、絶無の暗黒の深淵を暴き出す、出来する時である。それは出来しつつ、いわば引き裂かれた現在としての永劫回帰を、すなわちアイオーンを啓示するのだが、それ自体としては絶無の――むしろ〈死〉のその剥き出しの顕現であるとしかいえない。しかし、この〈死〉は、ただの死では有り得ない。それはインファンス(童子・語りえぬもの)としての死である。否、むしろインファンス=童子としての死の問題を再び問題提起しつつ、それを新たに問い直すべくわたしに強いるところの〈死〉である。この異常な〈死〉、超越的な〈死〉、不可視にして思考不可能なものとしての死、だがそれはむしろ〈不死者〉なのではないのか?と問い直すことから、わたしのこの考察は始まったのだ。