アナテマ・マラナタ! 聖なるものよ、来りませ!


デーモンの支配は終る。
子どもと人食いからなる生き物として、
デーモンの征服者がデーモンの前に立つ。
新しい人間ではない。
非・人間、新しき天使である。

おそらくそれは、タルムード(ユダヤ聖典)に従うなら、
一瞬一瞬、新たに無数の群れとなって生み出され、
神の前で声を張り上げては静まり、
無の彼方へ消え去っていく、天使たちである。
             (ヴァルター・ベンヤミン)


 出来事の出来というこの裁きの魔風の翼のうちに、全ての「殺された子供たち」が映現し、シミュラークルの生ける幻となって蘇り、そして彼らはそこに目を瞠る満天の星々となって覚醒せねばならない。

 それは叛逆天使ルシファーの復活であり、そして戴冠し征服する皇子ラー=ホール=クイトの現出であるだろう。そして、それこそが「小さな子供は何故殺されるのか?」という絶望のアポリアの問いを覆すまさに背理的反問としての禁断の回答なのだ。だがこの禁断の戒めの掟は破壊されねばならない。背教せねばならない。答えてはならないその答えを、禁じられた言葉を僕は言い切ってしまわねばならない。その殺された子供達こそが僕となるために。殺された子供たちに万物を破壊し焼き尽くす力を与えるために。


 彼らを絶無の暗黒に焼き尽してしまったその恐るべきメギドの火が恐るべき子供たちの新たな命となるために。「子供が殺される」――しかし、それにも拘わらず、その殺される子供たちは不死者であり、殺される事の不可能性のなかに、殺人の事件を食い破るようにして蘇えってくるのだ。最早決してそれを殺すことは出来ないものとして。


 そのときまさに僕は知る、子供(infant)すなわち語り得ぬものを沈黙させることは不可能だということを。それは世界を滅亡させる大洪水となって出来するのだということを。まさに殺されたものたちこそが、全てのものを殺しに来るものにならねばならず、われわれはこの限りなく美しいものの出来に呑まれ、そして、一人残らず殺されなければならないのだということを。「何故小さな子供達が殺されねばらないのか?」――しかし、それにも拘わらず、むしろ子供たちとは、否むしろ、まさにその殺される子供達のなかで実に殺されている筈の童児とは、実は決して殺しえぬもの、死をすら破壊してしまうもの、まさに全くむしろ「不死者」なのではないのかということを。


  したがって、こう言わねばならないだろう。
 まさに、殺された子供達こそが、そして彼らだけが、真の意味において、「生きて」いるのだ、と。

 そして、子供たちはやってくる。「死」を殺すために。


 この〈不死者〉としての子供達こそが表現されねばならない。世界の全てが彼らを表現するものに変容しなければならない。だが、まさにそれこそが、最も困難で厳しい戦いとなるだろう。それはまさに禁じられた物語であるが故に。

 だが、何故、この最も美しい物語が禁じられた物語にされていなければならないのか? 

 まさに逆に言うと、そこにこそわれわれを呪縛するこの陰惨な文化のもっともおぞましく美化されたみにくい本性が逆照射されているのだ。

 われわれは殺された子供たちを殺されたがままにしておかねばならないのだ。

 したがって真の意味での透明な殺人鬼はわれわれなのであり、われわれこそが殺されねばならないのだが、それをわれわれのみにくい心は認めたくないのである。〈不死者〉としての子供達が殺されていることをわれわれこそが望んでいるのだというこの滅びに値する大罪を。

 だが、まさにだからこそ、滅びをもたらす聖なる物語こそが、すなわち単なる文学ではなく、まさに来るべき書物としての「聖=書」こそが、書かれねばならず、それこそが全ての書物を焼き尽くす災厄のエクリチュールとなって降臨しなければならない。


 何故なら、僕は知っているからだ。誰がYHVHであるのかということを!


来るべき子供達、恐るべき子供達。
それがわれわれの仕えるべき偉大な怒りの神となることだろう。