不可能性の問題は、九鬼周造の『偶然性の問題』の〈後ろの正面〉に伏在する形而上学的悪魔の問題であるという風にも考えられる。
この形而上学的悪魔は、『偶然性の問題』と同じ1935年に出版された夢野久作『ドグラ・マグラ』の有名な巻頭歌に、いわば〈恐れイリヤの鬼母子神〉として生々しく表現されたものと別ではない(cf.レヴィナス『実存から実存者へ』等:非人称のイリヤ il y a)。
《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》と夢野は書いている。
『偶然性の問題』と『ドグラ・マグラ』が同じ年に出版されたのはただの偶然で済まされる問題ではない。
『ドグラ・マグラ』が黙示録的に曝露するのは、〈偶然〉などは「有り得ない」という〈悪魔の必然性〉としての不可能性の問題の削除不能なその伏在であるからだ。
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◇〈宿命〉と〈運命〉の差異について
それは〈宿命〉の問題であると換言してもよいかもしれない。まさに〈胎児〉は〈母〉に〈命〉を〈宿〉す存在様態であるからである。
〈宿命〉と〈運命〉は異なる。
〈運命〉というのは基本的には偶然性の問題である。偶然は〈命〉の種を〈運〉んで、運命を輪廻する運搬=業(カルマ)の問題である。命の種の運搬業者である偶然性は運命の物語を紡ぐものである。運命は宿命への諦念なしには生じない。しかし、宿命はこの運命というものを塞いでしまう。
諦念とは換言すればエポケーである。エポケーは括弧に入れて自らを切り離すことにおいて生じる(例:現象学的還元)。それはいわば臍の緒を切ることである(自立・誕生)である。
『ドグラ・マグラ』巻頭歌はその臍の緒を切ることの不可能性、つまりエポケーの不可能性を表現している。巨大で不可視の母を胎児は到底〈括弧〉に入れることはできない。逆に〈括弧〉に入れられて宙吊りになり首「括」りにされてしまうのは胎児の方なのである。
不可能性の問題は、ここでエポケーの挫折の宿命の問題としてある。それはどういうことかというと、〈意識〉というものが「成り立たない」ということを意味するものだ。
〈意識〉は不成立である。逆に成り立っているのは〈籠絡〉であり〈幽閉〉である。柄谷行人の表現でいうなら、それは〈夢の呪縛〉である。
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◇不可能性と偶然性の大小対当
不可能性とは悪魔の必然性である。これは「無の必然性」という九鬼の表現を言い換えたものである。これに対して偶然性(無の可能性)は、悪魔の可能性であるということができる。
けだし、悪魔的なものとは、否定的なもの、死を告げるもの、そして、「おまえは存在しない」「これは現実ではない」などとして、非存在或いは虚無のぞっとするその冷たい体に触れさせるものではないだろうか。
悪魔の必然性とは、否定の必然性、虚無の必然性、虚偽の必然性、非現実の必然性、非在の必然性、悪の必然性、死の必然性、と呼び変えても構わない。悪魔というのは古くからの無の異名である。
さて、こうして、偶然性も不可能性も悪魔的な様相概念であるといえる。だが、偶然性の胎児は、所詮、大悪魔(Archdemon)である不可能性の鬼女に操られ踊らされる小悪魔でしかありえない。
《胎児よ 胎児よ 何故躍る 母親の心がわかって おそろしいのか》という夢野久作の黙示録的で絶望的な「嘲笑」を僕はそのように読み解く。
けれども、勿論、こうした解釈はそれ自体が余りにも悪魔的だ。
それは、夢野にとって母とはどういうものであったのか、九鬼にとって母とはどういうものであったのかを僅かにでも知るものにとって、それを思えば実は深い心痛なしには、そして心を〈鬼〉にすることなしには決して語ることも触れることもできないことなのだ。
さて、アリストテレスの対当の方形によれば、不可能性(E・全称否定)と偶然性(O・特称否定)は大小対当の関係にある。
大小対当というのは、
【1】全称命題(大)が真であるとき、特称命題(小)も真である。
【2】特称命題(小)が偽であるとき、全称命題(大)も偽である。
という関係式である。
これには含みがある。更に、
【3】全称命題(大)が偽であるとき、特称命題(小)は真偽不定の宙吊りにエポケーされる。
【4】特称命題(小)が真であるとしても、全称命題(大)が真であるとはいえない、それはなおも偽でありうる可能性の余地を残している。
ではここで、真偽を善悪、または神・悪魔に置換え、偶然性の胎児と不可能性の母との関係を読み取ってみよう。
すると、上記それぞれの場合に対応して〈胎児の夢〉の中身がどのようになるのか、次の四つの様態が考えられることになる。
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◇〈胎児の夢〉の四つの様態
【1】童心
不可能性の母が本当に善意ある慈母であるなら、偶然性の胎児は善意ある仔羊として〈幸福〉な夢を見る。この胎児は安心して生きてゆくことができる。私はこの様態を〈童心〉と呼ぶことにする。〈童心〉においてのみ、〈神〉は正しくそのあるがままの美しさで顕現し得る。換言すれば、これは〈神通〉である。
【2】悪魔
偶然性の胎児が嘘つきの小悪魔であるなら、不可能性の母は善意ある慈母の偽善の仮面をかぶったおぞましい魔女である。夢野のいう「母親の心がわかっておそろしい」という身の毛のよだつイリヤの〈恐怖〉はこの場合に該当する。〈悪夢〉の〈認識〉はまさにここにおいてのみ断言することができる。自ら〈悪魔〉とならなければ、決して〈夢の呪縛〉を見破って背後に隠れた大悪魔の正体を暴くことはできないのである。したがって、次のようにいうことができるだろう。
〈悪魔〉は〈悪魔〉によってのみ識られ得る。
【3】意識
不可能性の母が善意ある慈母のふりをしているだけだとすれば、偶然性の胎児は逆に母親の心がわからなくて、〈不安〉のなかに宙吊りになる。〈意識〉はまさにここに発生する。
【4】呪縛
偶然性の胎児が優しい母に愛されている〈幸福〉な夢を見て安穏と暮らしていたとしても、胎児は単に欺かれているだけなのかもしれないという〈愚かさ〉の可能性は排除しえない。この場合も母親の心はやはりわからないのである。
実は、この最後の〈平和〉が最も陋劣で白痴的な〈最悪〉の〈政治〉の光景である。柄谷のいう〈夢の呪縛〉はまさにここにおいて見いだされねばならない。
実にこれこそが〈絶望〉である。
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◆後記:
背教の定位・アポスターズ論に向かって
ところで、運命の物語を紡ぎ出す胎児の能動的諦念としてのエポケーは、最初の〈童心〉の場合でなければ生じない。それは虚無(悪魔)という宿命から脱することである。
このとき〈胎児〉は虚無の宿命の内に塞がれているのだとしても誕生しているのだといえる。
つまり〈胎児〉はもはや〈胎児〉ではなく、力強く生誕の産声を上げる〈嬰児〉であり、〈童児〉に変容しているのだといえるだろう。
運命の物語とは童話(メールヒェン)であり虚構(フィクション)である。
しかしそれは愚かなものでは決してない。
宿命を脱することとは、宿命を全的に引き受けることと一つにしてのみ出来する奇蹟であるからだ。
それは産婆術(弁証法)を撥ね除けることである。己れを間引かせないことである。
自らを決して「仮説的偶然」(九鬼周造「偶然性の問題」参照)にしないことである。
そもそも、〈if〉(もしもの仮定)などというものがあるから、無限なるものの〈畏怖=恐縮〉(cf.収縮=撤退 zimzum[イツハク・ルーリアのカバラ]、縮限 contractio[クザーヌス&レヴィナスの語る無限者の自己収縮論])などという莫迦げた有限化が起こるのである。
〈畏怖する人間〉は必ず〈IFする人間〉である。(cf.マクベス、愁いの王、柄谷行人)
〈童心〉は自らを母胎に依存的に定位しないで母に憑依して一挙に自らを生み出させる。
私はこれを〈帝王切開〉と名付けたい。それは或る意味では、排中律の逆転位である。
存在でもなく非在でもないもの(不可能存在)こそが実在する。
しかもそれは全く媒介を必要とせず直接的にここに出来するのである。
したがって、ここにヘーゲルの弁証法のつけいる余地は全くないのである。
絶対精神は死んだのだ。そしてそれは金輪際復活しないであろう。
Credo quia impossibile est. 不可能なるが故にわれ信ず(テルトゥリアヌス)。
〈童心〉の意味するのは、いわば〈超悪魔〉としての〈神〉である。
カントが二律背反について語ったとき、彼は確かにこの超悪魔としての神が何であるのかを知っていたのに違いない。二律背反というスーパーパラドクスは否定的な不可知論というより以上の積極的な意味をもっている。まさにその二律背反の裂け目こそが〈神〉の全く顕現する場処なのである。真の意味で実存するとはそれである。
この二律背反に帝王切開的に立つときに、観念の魔王に神隠しにされた全世界が一斉に息吹を上げて蘇生するのである。
まるで火山が爆発するかのように。
【参考資料】
◆対当(oppositio)
古典形式論理学の基礎概念のひとつ。主語と述語を同じくし、量と質において異なる4種(A=全称肯定・I=特称肯定・E=全称否定・O=特称否定)の定言命題間に成り立つ関係をいう。
全称肯定(A): すべてのXはYである。
全称否定(E): すべてのXはYでない。
特称肯定(I): あるXはYである。
特称否定(O): あるXはYでない。
対当関係の種類および性格は次の通り。
(1)〈矛盾対当〉(contradictoriae)は、A-OおよびE-I間の関係であって、いずれか一方の命題が真なら他方は必ず偽であり、かつ一方が偽なら他方は必ず真である。
(2)〈反対対当〉(contrariae)は、A-E間の関係であって、一方が真なら他方は必ず偽であるが、一方が偽であるからといって他方が真であるとは限らない。
(3)〈小反対対当〉(subcontrariae)はI-O間の関係であって、一方が偽であれば他方は必ず真であるが、一方が真であるからといって他方は偽とは限らない。
(4)〈大小対当〉(subalternae)はA-IおよびE-O間の関係であって、全称命題が真なら特称命題も真であり、また特称命題が偽なら全称命題も偽である。
【姉妹記事】
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